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叶うようにしていく

 今日の夜勤から仕事復帰である。

 2週間も休んでいたので、仕事に穴をあけてしまい、同僚や先輩の方に迷惑をかけてしまっているので、それを埋めるかのように仕事をしていきたい。これ以上は、休めないので、今年は、今までインフルエンザの予防接種を受けようと考えている。

 それとともに、自己管理を徹底していきたい。まずは、食生活を改善していき、そして、マルチビタミンを摂取していこうと思う。風邪をひかないように、体質改善をしていくことが重要だと考えている。

 体質改善とともに、お金の管理も徹底していきたい。今までは、どんぶり勘定だったのを、貯蓄出来るように、必要最低限の支出で生活していきたい。細かいところから、改善していくことが重要だと思っている。

 体質改善やお金の管理を徹底するためには、自分自身を変える必要がある。一足飛びには出来ないかもしれない。しかし、やるからには徹底していきたい。自分自身の甘さを封印して、気持ちを強く持っていきたい。

 こうして、変化をしていくうちに、壁にぶち当たるかもしれない。その壁を乗り越える強さを持っていきたい。他人に迷惑をかけないようにしていくことが重要である。これからは、常に、自分自身を変えることを意識していきながら生きていきたい。

 今年も、残すことわずかである。それでも、今から生活を変えていきたい。来年は、飛躍の年にしていきたい。明確な目標があるので、それを、実現していきたいと思っている。バイクを購入したり、そして、来年の10月には本を出版するので、売れるようなエッセイを書いていきたい。

 そのためには、今の仕事も精一杯頑張っていきたい。そして、必ず結果を出していきたい。なので、成果を出すためには、自分を変える必要がある。そのための努力は惜しまないつもりである。

 必ずしや、結果を残していきたい。そして、自分の思い描くことが叶うようにしていくことが、僕が目指していくことである。
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金縛り

 僕は、一度だけ金縛りの経験をしたことがある。

 その時は、恐怖しか感じなかった。声を出そうとしてもうまくいかない。身体はピクリとも動かない。怖いので、目を閉じながら、心の中で南無阿弥陀仏と唱えているが、全く、効果はなかった。

 こりゃあ駄目だと思ったとたんに、ワーッと言いながら金縛りがとけて、ばっと起き上がった。さっきのは一体何だったのだろうかと思いながら、初めて経験した金縛りに疑問を持った。

 一説には、身体が究極的に疲れた時に金縛りにあうということを聞いたことがある。果たして、僕の場合はどうなのかというと、疲れてはいたが、金縛りにあうほど、疲れてはいなかった。

 やはり、霊的なものの影響なのかと考えたが、霊感など、これっぽちもなかったので、何も見えなかったし感じることはなかった。しかし、初めて経験したことを考察してみると、霊的なものではないものだと思っている。

 身体も疲れ果ててはいない。疲れていることは疲れてはいたが、究極的に疲れてはいなかった。果たして真相は藪の中に入ることとなった。今でも、思い出すことはあるが、結局は、真相も分からないままであった。

 その後、金縛りにあうことはなかった。人生で金縛りにあったのは、あの時が、最初で最後の体験と言える。困ったときには、まるで金縛りにあったかのように固まってしまう。そういった意味では、僕は、すぐに固まることが多い。

 理路整然と理詰めでこられると、すぐに、答えることが出来ない。それと畳みかける相手も苦手である。僕としては、それほど細かくはなく大雑把な性格であるから、細かいことを気にする人も苦手である。

 こうして、僕の場合は、仕事相手に対して、細かい人と一緒に仕事をするのは苦痛でしかない。そうして、僕は生活を送っているだけで、何度も金縛りみたいな状態に陥っている。

 しかしながら、仕事に対して、細やかな気配りが出来るようにはなりたい。そうすれば、何もかもうまく回ること間違いはない。もっと、自分自身に対して厳しくならないといけない。

 まぁ、何事も経験だと思いながら生きていきたい。それにしても、二度と金縛りにはあいたくないものである。もし、今度、金縛りにあったら、冷静に自分の状況を鑑みてみたいと思う。
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自由奔放に

 この先、何が起こるのか誰にも分からない。

 例えば、今回のように、肺炎と喘息性気管支炎を患って入院することになった。こういったことは、想定外の出来事である。リスクマネジメントをしっかりとしないといけない。そのためには、ある程度の貯蓄が必要である。

 仕事にも穴をあけて周囲の人に迷惑をかけている。今後は、自己管理を徹底していかないといけない。なので、今年は、今まで受けたことのないインフルエンザ予防接種を受けようと思う。

 毎日、エッセイを書いていきたい。さくらももこや中島らもみたいな、才能はないけれど、それでもかまわないから、自分らしさを前面に出していきたいと思っている。とにかく、自分にしか書けないような内容のエッセイを書いていけたらと考えている。

 来年の10月にエッセイ集を発売するので、是非とも面白いものを提供できればいいなと思っている。そのために、もっとエッセイの質を高めたい。だから、毎日、エッセイを書いていきたいと考えている。

 思い通りに書けない日が多いけれど、自分の中で手応えを感じる日もあるので、そういった日を一日でも多くするのが、今後の目標である。喩え、スランプに陥ったときにも、それにも負けずに書いていきたい。

 スランプの時には、中々書けないけれども、プロ意識を持って常にある程度の水準を保って書きたいと思っている。こうして、書くのは簡単だけれども、いざ、実践するとなると難しいけれども、頑張っていきたいと考えている。

 自分自身の中にある固定概念を覆していきたい。そこから、生まれるエッセイもあるだろう。常識に縛られず、自由奔放にエッセイを書いていきたい。常に新しいものを追求していきたいと思っている。

 そうすれば、自分らしさを前面に出せるエッセイを書くことが出来る。そのために、日々、精進していきたい。
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変えらねい過去を嘆くよりも

 いくつになっても遅すぎることはない。

 例えば、50歳を目前にしていても、常に、夢や目標を抱き続けていきたい。歳が歳だからといって、諦めるようなことはしたくない。出来ない理由を並べたてているよりかは、どうすれば、達成できるのかということを考えていきたい。

 変えられない過去を嘆くよりも、変えられる未来を見据えて生きていた方が、よほど、建設的な生き方といえよう。それと、他人と比較するのは愚の骨頂である。こういった言葉がある。「他人と比較するな、過去の自分と比べよ」である。

 まさに、その言葉通りである。一年前の自分と比べて、今は成長出来ているかどうかを、確認することが重要である。個人的には、一年前の自分と比べると成長しているということを実感している。

 これからも、過去の自分と比べて成長出来るようにしていきたい。今年の成果としては、プライベートでは、自動二輪の免許を取得したことである。仕事も決まり、歩みは遅いけれども、徐々に出来てきている。

 来年は、体調管理に気を付けて、仕事を休むことなくやっていきたい。そして、年明けにはバイクを購入することである。そして、自由自在に乗りこなせるようになれば、今度は、大型自動二輪の免許を取得したいと思っている。

 大型バイクを購入するのは、随分先になるだろう。今回のバイクは中古車なので、大型バイクを新車で購入するのは、随分、時間が必要である。そのためには、貯蓄をしないといけない。何かしら、目標があると頑張ることが出来る。

 一つ一つ、夢や目標をクリアしていきたい。過去は封印出来ないけれど、それでも、その過去を糧にして、現在や未来に反映していきたい。そして、いくつになっても、やろうと思えば出来るといったことを体現していきたい。

 とにかく、夢や目標に向かって前向きに進んでいきたい。それが、今後の僕が生きていく道である。最後の最後まで諦めずに挑戦し続けていきたいと思う。
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変化を受け入れていく

 街はクリスマスに色づき始めている。

 華やいだ景色を見ながら、僕には、クリスマスプレゼントを交換する相手がいないという事実が胸に突き刺ささりむなしさを覚えてしまう。思わず、幸せだったことを思い出してしまう。

 別れた妻との思い出や、まだ、幼かった息子と一緒に過ごしたことが、フラッシュバックが訪れる。現在は、彼女もいなくて一人で過ごす時間が多くなっている。そういった状況を受け入れるしかない。

 今は、特別な存在となる彼女を欲しいとも思わなくなっている。これは、決して強がりでもない。もう、長い間、そういった存在の女性がいない。そして、僕は一人の生活に慣れつつある。

 自分のペースで生活を過ごしているので、今更、彼女といった存在を必要としなくなっている。しかし、自分のペースを崩してまで、恋愛をしたいといった女性が現れたら、恋人として迎い入れることもあるかもしれない。

 ただ、今まで生きてきた中で、そういった燃えるような情熱を傾けることは、二度と訪れる可能性は低いと思っている。自分自身が情熱を傾けられることが多いので、一人きりの時間が必要である。

 そういったことを崩してまで、彼女が欲しいといった感情はとても少ない。50歳を目前にして、最後にひと花咲かせたいといった気持ちがあることは否定しない。しかしながら、僕の中で彼女が欲しいといったことの優先順位は低い。

 こうして、エッセイを書いたり、あるいは、好きな映画を観たり、読書をしたりする時間を過ごしている。だから、自分のペースで生きることが、僕にとっては重要な事柄であったりしている。

 これから、バイクを購入するので、色々なところに出かけるつもりである。休日の過ごし方も変わるだろう。その変化を受け入れていく。自分の時間を大事に確保していきたい。なので、今後も自分のペースで生きていきたいと思う。
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目玉焼きにかけるのは

 目玉焼きにかけるのは、しょうゆかソースかどちらかに別れるだろう。

 個人的な見解としては、断然、しょうゆである。というのも、そもそも、卵を用いた調理は、しょうゆがメインとなってくる。だし巻き卵などは、言うでもなくしょうゆをかけるということに関しては、誰しもが文句はないだろう。

 もし、だし巻き卵にソースをかけてしまうと、そこら中の人は怒り狂いだし、取り返しのつかない状態になるだろう。何をしてしまったんだといった気持ちになる。しかし、目玉焼きでは、平気でソースをかける人がいるのには驚きを隠せない。

 だって、目玉焼きも卵料理の一部なのに、それを、平気で我が物顔でソースをかけるのは何事だと思ってしまう。しょうゆならば、卵本来の味を損なうことなく味わうことが出来る。これが、ソースならば、濃い味が勝ってしまうので、卵を味わうことが出来なくなる。

 反対に、ソースをかける料理にしょうゆをかけたら、違和感を覚えるだろう。例えば、カレーライスにソースをかけたり、お好み焼きやたこ焼きがしょうゆ味ならば、誰も、見向きはしないだろう。

 そういったことを考えると、基本的には、しょうゆとソースは相いれることはない。適材適所といった言葉が頭に思い浮かぶ。もし、串カツをソースではなくしょうゆならば、それこそ、暴動が起こるかもしれない。

 やはり、しょうゆはしょうゆで、ソースはソースで、それぞれの分野で活躍してほしいものである。決して、卵料理には、ソースには顔を出してほしくないものである。あくまで、ソースは、カレーライスや、お好み焼きにたこ焼きや串カツといったところで勝負をして欲しいものである。

 しょうゆは、卵料理や、寿司や刺身の世界で儚げに生きていって欲しいものである。ソースに関して、しょうゆが活躍する機会は少ないけれど、頑張ってもらいたい。僕は、ソースよりも、しょうゆが好きなので、今後も温かい目で見守っていきたいと思う。
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スランプ

 ここ数日、スランプが続いている。

 普段なら、書きあぐねるということはない。しかし、スランプなので、何を書いたらいいのかということを考えてしまう。そうすると、一つのエッセイを書くのに5時間くらい、パソコンのモニターに向かって考えてしまう。

 もっと、書きたいことがあるのに、それを、言葉にするのが非常に困難な状況に陥っている。一日も早く、このスランプから脱出したい。そのためには、リスクを恐れず、言葉を紡いでいく必要がある。

 自分の感性を信じて書いていけたらと思っている。今は、それが出来ていない。もっと、肩の力を抜いて書いていけばいいとは頭では分かっていても、いざ、エッセイを書こうとすると、肩に力が入り、何を書けばいいのか分からないといった悪循環になってしまう。

 スランプからの脱出を、野球に例えると、バッターの場合、中々ヒットが出ない状況が続く。苦しみの中で、これといったあたりのファールでフィーリングが戻ったり、あるいは、クリーンヒットではないけれども、ヒットが出て、スランプから脱出できるのである。

 これを、文章を組み立てる中で、これだといった文章を書けるかどうかである。こうして、毎日、文章を書いていると、段々とネタが尽きてきて、書けない状況が続く。それを、解消するためには、休日の日には、出かけたりして、書けるようなネタを拾わないといけない。

 あとは、自分自身の中で、棚卸をしないといけない。まだ、眠っているようなネタが転がっているかもしれないからである。とにかく、何らかのキーワードがあれば、エッセイは書けるので、それを、探さないといけない。

 こうして、自分の中に巣くっている負の感情を吐露することによって、次につなげられればいいと思う。こういった時にこそ、感じていることを素直に表現することによって、書くことが出来るようになると思うので、今後は、書いていきたいと思う。
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アメリカ横断ウルトラクイズ

 昔々に、アメリカ横断ウルトラクイズという番組があったのはご存知だろうか?

 何ヶ月ほどのロケかは、当時の僕(幼かったので)では知る由もならないが、会社を辞めてまで望んでくる猛者どもがいたことは確かだ。確かに、日程的には、何ヶ月とは言わず、1ヶ月弱はかかっていただろう。その中で、勝敗を決めていたのだから、当然、タイトなスケジュールといわざるを得ない。

 しかも、どこまでが演出なのかは知らないが、負けたら罰ゲームがあるということに、子供心をしっかりとつかんだということは間違いない。ただの、知的なゲームとは違い、罰ゲームもあり、憧れのアメリカ大陸へと行けるのだから、僕としてはうらやましい限りであった。(決して負けると思っていないのが子供らしい)

 当時は、バブルの夜明け前か、始まったばかりなのかは、そのあたりの記憶は定かではないが、心躍らす夏の一大イベントとして、僕の心に焼き付いている。今となって、振り返って見えれば、会社を辞めてまで出演するゲーム大会などあったのだろうか?この、アメリカ横断ウルトラクイズにおいては、日常茶飯事的な事柄だったように思える。

 今でも、バラエティー番組やクイズ番組はあるけれども、あの、かつて一世を風靡したアメリカ横断ウルトラクイズみたいな番組は、もはや出てこないのだろうかと疑問に思ってしまう。逆転の発想を持って、テレビ局側から仕掛けてみても面白いのかもしれない。あの、アメリカ横断ウルトラクイズを。

 ただ、出演しようという猛者が現れないかもしれない。そうすると寂しいものである。こうなったら、パスポート一枚で、どこにでも旅へと出かけていき、その辺のジャングルに、簡易の解答席を作り、後ろはサバンナでしかも油断できない状況の中で、サバイバルクイズをすれば、それなりに視聴率は上がるかもしれない。それ以上に、お叱りの言葉を受けるかもしれないが。

 大体、今の状況で視聴者のご機嫌ばかりを伺う風潮はどうなのかと思う。決まりきった、道徳観を押し付けて、自分だけ悦にこもっている自称道徳家には反吐が出る。それなら、反対の考えで、これ以上したら危険というレベルを芸人さんたちが身をもって示すか、あるいは、これ以上、発言するといじめになってしまう。

 といった具合に、ぎりぎりのラインを示さないことには、いつまでたっても、根本的な解決にはならないと思う。無菌培養で育てられた子供ほど恐ろしいものはないと、この先、何十年化後に分かったとしても遅いものであるから。

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リズム感

 恥ずかしい話だが、僕はリズム感がない。

 だから、ゲームの太鼓の達人も、リズムを外しっぱなしで、人前で踊るだなんて、とてもじゃないが、恐れ多くてできやしない。なので、リズム感がある人に対して、嫉妬に近い感情を抱いてしまう。

 それに加えて、手拍子もずれてしまう。カラオケに行っても、皆が、手拍子を入れて盛り上げる姿を見ると羨ましく思える。盛り上がっている中で、一人、ポツンと取り残されているのがむなしく思えてくる。

 バブルの時に、頻繁にダンスパーティーがあったけれども、一度だけ参加したことがあるけれども、音楽に合わせて踊ることが出来ない。それが、コンプレックスを抱くことになり、二度と人前で踊ることはないだろうと痛感したのである。

 楽器も、上手にできない。マラカスやら、タンバリンなども苦手である。一度、従兄から、ギターをもらったことがある。練習をしても、全く上達しないので、今は、ほこりをかぶっている。

 ギターを出来る人に対して、素直に羨ましいと思ってしまう。そこで、考えてしまうのは、どうして僕はリズム感とは無縁なのかということである。全く、トホホといった感じである。

 やれやれと思いながら、大袈裟に言えば、死ぬまで人前で踊ることはないだろう。自分でもリズム感がなくて、音楽に合わせて踊ることが出来ない。それを分かっているので、出来るだけ、人前で踊ったり、マラカスやタンバリンを使うことのないようにしていくのである。

 生きていく中で、踊れなくてもいいじゃないかと開き直ったりしている。そんな暇があれば、自分が好きな分野で活躍できるようになればいいだけのことである。趣味にも時間を費やせばいいやとも考えたりする。

 バイクに乗って、あちらこちらと出かけていきたい。そう、もう踊ったりすることと無縁の世界で生きていきたい。出来ないことをくよくよと考えているより、出来ることをしていけばいい。強がりを言っているだけだとしてもかまわない。

 たとえ、踊れなくても立派に生きることが出来る。なので、そう悲観的になる必要もない。出来ることを確実にしていけば良いだけの話である。そう考えながら、今日も生きている。
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リアルとフェイク

 今、生きている世界がフェイクだとしたら、どうなるのだろう。

 現実だと信じている世界が、実は作られたものだとしたら、何が真実なのかと疑ってしまう。仮想世界の中で僕たちは生きているのかもしれない。それが、フィクションだと言い切れることは出来ないと思う。

 このように考えてみると、違った世界があり、そこでは、僕という存在はないのかもしれないし、違った人生を送っているのかもしれない。作られた世界と現実の世界といった狭間の中にいるのかもしれない。

 ねじれた世界の中で苦しんでいるのかもしれない。まるで、映画で描かれていたマトリックスのような世界観もあるのかもしれない。コンピューターに、支配された世界も、あながち、間違ってはいないのかもしれない。

 どこまでが、リアルで、どこからがフェイクなのか、それを見極めることは、非常に難しいと思う。そこにある真実とは何かといったことを考えざるを得ない。

 リアルとフェイク、相反する世界。決して、交わることのないように、並行して進んでいるのかもしれない。そういった考え方をパラレルワールドという。そして、似たような世界でありながら、互いに知ることのない真実を生きていく。

 もし、違った世界では、成功しているのかもしれないし、今、生きている状況よりも、最低の生活を送っているかもしれない。それは、決して、知りえることのない事実である。だから、今、送っている生活がリアルなのかどうかは、はっきりとは言えない。

 しかしながら、今、生きている現実を認識しながら、違った世界があるのかもしれないと考えることも必要なのかもしれない。喩え、リアルであれフェイクであれ、精一杯、生きるしかないのである。

 これまでの日々は間違っていないと思うことは必要である。そして、決して後悔するような生き方をしないことが重要になってくる。いつか、命の灯が尽きるその日まで、頑張って生きていこうと思う。
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